ヘンシェル社総支配人ハイデカンプフ博士、戦後に語る。
「ポルシェ博士が手掛けた設計の戦車の数々は性能が不充分であり、多くの設計変更が必要であった。
彼の指示内容は現実的でなく、既存の生産設備を無視したかのような仕様変更は現場サ
イドに混乱と生産遅延を引き起こしがちであった。」
「本命の重戦車」VK 45.01(P)は「保険の重戦車」VK 45.01(H)に大きく水を開けられた。
トライアルテストの日、動かなかったのである。
死命を決せられたVK 45.01(P)であったが、生産指示から、実際の納品までのリードタイムを短縮する為に、採用決定以前から100
輌の発注が成されていた。
そして、その内容はわずか100輌を生産した後に、主砲を88/L56から88/L71に換装が決定しているなど、現実的ではない物
でした。
ポルシェ案の重戦車VK 45.01(P)は、不採用により、開発史の1ページに留まるはずでしたが、Sd.Kfz184「フェアジナント」と
して分類と活躍の場を変え、あらたな活路を見出します。
また、それとは別にVK 45.02(P)として新たなポルシェ案の重戦車が登場する事になります。
ポルシェ社内において「Type180」と呼称された新型重戦車は動力ユニットを後部に配置(Motor Hinten)し、アンバランスなまで
に砲塔を前進配置するのは前作と同様のものでしたが、再設計にあたり、ポルシェ博士は車体の基本形状を一新し、それまでの垂
直構成から、ソ連軍のT-34を意識し傾斜装甲を取り入れました。
また、装甲厚は前作のVK 45.01(P)より、むしろ減ぜられ80oとされますが、傾斜車体もあいまって防禦力は前作に劣らないと
考えられていました。
主砲は当初から71口径の88o砲の搭載が決定され、新型の砲塔がクルップにて開発されます。
その他は前作と殆ど変わらず、開発期間の短縮が見込まれていたのか、設計終了以前に前作同様「100輌の発注」が1942年2
月にされ、そして、その引渡し時期は1943年3月でした。
概ね「1年間」の準備期間が与えられていましたが、ポルシェ博士はこの間、「発注されたType180」の生産準備等は行わず、発電
機駆動用エンジンの仕様、オイルラインの変更、さらに動力ユニットの搭載位置をそれまでの車体後部から、車体中央部(MOTOR
MITTE)に変更する「Type−180B」案、搭載するエンジンに合わせ、車体のサイズまで変更された「Type−181」シリーズなどの改
良(?)計画の立案に没入するありさまでした。
これらの迷走振りが原因か、当初の100輌の発注は1942年11月に僅か3輌の試作発注に変更されてしまいました。
発注内容の変更に危機感を感じたのか、ポルシェ博士は1943年2月に3輌の試作車がニーベルンゲン製作所にて組み立て中であ
ると報告しますが、実際には砲塔の組み立てだけが行われ、車体の製作には着手されていませんでした。
ポルシェ博士は同年12月に戦車委員会議長の席を譲り、後任にはヘンシェル社総支配人のハイデカンプフ博士が着任した。
細々と組み立てられていた試作砲塔はヘンシェル社の管理の元、改修を受け「2つ目の保険の重戦車」に搭載された。
ティーガーUの誕生である。
■商品概容
The Contents Things of Product. | ||||
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